汗を全身から滲ませながら、どこまでも続く夏空の元、学校への道をだらだらと歩いているのは、言うまでもなく純一だった。
その隣で歩くのは瑞樹である。瑞樹は暑さという概念が無いかの如く軽やかな歩調で歩いていた。
あれ以降「ちょっと長い用事が出来て」と、1ヶ月ほど姿を見せなくなったために少し落ち着きを取り戻して安心した純一の日常がまたしても一発で破壊された。
あの後再会を喜んでいたが、少しすると純一のげんなりモードが1ヶ月前あたりまで戻っていた。瑞樹があまりに激しすぎるのだ。色々と。そう言うわけで純一は夏の暑さ以外にも体がだるくなる原因を抱え込んでいる。
「ただいまー」
瑞樹を後ろに連れた純一が家に帰った。
「ただいま。――あらあら、瑞樹ちゃん。久しぶり」
「お久しぶりです。――またここに住みますので、よろしくお願いします」
瑞樹が遠見家で暮らすことは以前から決まり切っていることである。
「それじゃあ、確か純一の部屋の隣って開いてたわよね」
「あれ、何で? 今までと一緒の部屋で良くないの?」
姉はその質問を笑って流した。純一は溜息をついて元の質問に答えた。
「いや。開いてないよ。倉庫になってたはずだけど」
「……そうだったかしら?」
「そうだった」
「じゃあ、片付けておいて」
「僕が?」
「純一が」
「本当に?」
「本当に」
「……」
「頑張ってね~」
手を振る姉を睨めつけてから、階段へと向かった。1段目を踏み出す前に、恨めしげに姉を一瞥して階段を上っていった。
「終わるの……? 本当にこれ、終わるの……?」
目の前に積まれた段ボールその他諸々の山を呆然と眺めつつそんな独り言を言うと、大きな溜息をついてから、
「やるか……やるしかないか」
純一は部屋に踏み込んだ。その瞬間、大きく咽せ込んだ。
「マスク……マスクが必要かも……げほっ」
……そして、戻ってきた純一の格好はマスクを着用、三角巾を着用。手にははたき。そんな姿からは『掃除するぞ』オーラが出ていた。しかし、その格好は果てしなく格好悪かった。
「やるぞーっ!」
1人気合いを入れて掃除を始めた純一を待ち受けていたのは、長年掃除していない所為で埃が溜まりに溜まっている上に、同じ期間全く整理されていない段ボールの大群だった。
結局その部屋の片付けが終わったのは完全に日が落ちた頃だった。
部屋から出た純一はその後、下に降りて夕食を食べると、軽くシャワーを浴びてベッドに倒れた。
「つ、疲れた……」
何だって僕が全部やらねばならないんだ、というか何でわざわざ隣の部屋を開けねばならんと愚痴る間もなくドアが開いた。
「生活に必要なものが揃うまで、純一の部屋でいいかしら?」
2人に問う姉に
「良くない」
純一は『拒否』と即答し、
「別に良いですよ」
瑞樹は『了承』と即答した。
「いや良くないから」
そんな瑞樹の反応を聞いて純一は反論する。が、
「瑞樹がそう言ってるんだから、文句言わないの」
姉はその反論を軽く流そうとした。姉なら無理にでも同じ部屋にしかねないと感じ取った純一は
「それじゃあ僕、下のソファーで寝るから。毛布よろしくね」
と言いつつ部屋を出た。そして、ソファーに倒れ込んだ。
(分からないなぁ……)
既成事実という言葉を都合良く忘れようとした純一だったが、それに心当たりが無いわけではない。突然1人で顔を赤くした純一だった。
蝉が盛大に鳴く中、純一と瑞樹は学校に到着。純一は教室に入ると机にへばりついて「うあー」と呻いていたが、瑞樹は外を眺めていた。
「平和だね……」
「いいことじゃないか」
「そうだね……」
教室には2人を除いて誰もいなかった。電気が無くても夏の日差しで十分明るい教室。その中は確かに明るいが、その代わり、暑かった。尋常ではないほど暑かった。
ほとんど密閉状態だった教室には熱気がこもっていた。そのむさ苦しさから窓を全開にするも、ほとんど風が無いために熱気は少しずつしか逃げていかない。窓を開けた結果変わったのは、蝉の鳴き声が大きく聞こえるようになったということのみだった。
そんな瑞樹を眺めていた純一はあることに気付いた。
瑞樹の瞳から光が消えている、ということに。
「瑞樹?」
「……」
「ねえ、瑞樹!」
「……」
『時々あるんだ。瑞樹がぼーっとするのって』
「『ぼーっとする』って、揺すっても起きないよ。度が過ぎてるよ」
『大丈夫だよ、しばらくしたら戻るから――なんなら、王子様のキスで起こしてみたらどうかな?』
「カノイ、いくつ……?」
どこか冗談とも思えない口調で話すカノイに年齢を問う。
「……ん?」
瑞樹の瞳孔に光が戻ってきた。
「あれ? 私――」
「おはよう、瑞樹」
純一は訝しげに挨拶をした。
「え……? ――おはよう、純一」
純一は頭を振った。
瑞樹に一体何が起こっているのだろうと考えるのが精一杯で、今だ瑞樹の肩に手をかけているということをすっかり忘れていた。
そのことを思い出した瞬間にただでさえ暑さで少し赤が差す顔が一気に紅潮した。
『……だめだよー。人がぼーっとしてる間にそういうことしちゃあ』
「だからカノイいくつ……? っていうか、僕何もしてない。一切してない。全くしてない僕は完全なる潔白ですっていうかカノイって一体何歳なのかっていうかそのえっとああまあそういうことうん」
「純一、言い訳になってねーぞ」
純一の体が硬直した。額から暑さからとは違う汗がだらだらと流れる。
焦る気持ちも一瞬、振り返ると、
「おはよう純一。今日も暑いな」
にやけ顔でドア付近に立つ水無月翔がいた。
「昨日どっか行って帰ってこないと思ったら転校生ともうそこまで。いやはや最近の若者は」
「翔も十分若者だからッ! っていうかそんなじゃないって!」
しかし翔は相変わらず『ニヤニヤ』という言葉がどこまでも似合う顔のままで、腕を組んで何度も頷き続けていた。顔が下に振れる度に「うん」と声を出し、かなり『オヤジ臭い』姿だった。
「だぁかぁらぁ、違うって何度も言ってるだろッ!」
「当人の台詞ほど疑うべきものは無いからねぇ……。遠見純一君」
何故に警察口調……!? と思いつつ瑞樹に助けを求める視線を送る。
が、瑞樹はその視線を完全無視した。
「何言ってるの純一?」
純一は崖っぷちに立たされた様な顔をして瑞樹を見、翔は「くく」と笑い純一を見た。
そして沈黙が訪れる。
ぽつぽつと教室に入ってきた生徒たちはそんな状況を見て怪しげな視線を1つ向けて席に着いていく。
「あは」
その瑞樹の一声でその空間の時間凍結は解除された。約3分。お湯でも入っていたのだろうか。
「純一、がんばれよ。俺は応援してるぜ」
「違うっんっ!?」
その「ちが」を言った途端に瑞樹の体は反転、純一と向き合う形となり、
「なっ!」
さすがにこれには気温が下がった。ひんやりとした空気が純一の背中をくすぐる。髪が小さく揺られる。瑞樹の前髪が純一の顔に触れた。瑞樹は純一の口を自らの口で塞いだ。
教室の視線が2人に注がれる。
――純一、お前……。
じとっとした目が、純一に向けられていた。
純一の中にあった、瑞樹に対するイメージが完全に再構築された。
「こうすれば、分かるよね」
離れて言った。あははっ、と笑った瑞樹を純一は異常に怖い目で睨んだ。
――こうして、『既成事実』がまた1つ。
全国的に晴れている。夕暮れにも日差しは容赦なく降りかかる。そんな中、純一はまだ引かない冷や汗をだらだらとかきながら歩いていた。
「瑞樹ぃ~……」
「何?」
「…………いや、何でもない」
「何よ~」
「……何で君はあんなことをするのかな?」
「あんなことって何?」
「ほら、教室の中でさ、えっと。“あれ”」
「えー、“あれ”が一番の愛情表現だよー」
「教室で愛情表現しないでッ!」
叫んだ純一を、周りの人は奇怪な目で見た。全く最近の若者は……。という主婦の目があった。
怒りと何となくの恥ずかしさに顔を真っ赤にする純一を瑞樹はふふふと笑った。
(う……)
だから純一は溜息をついて「もういいよ……」と言うのだった。
「ただし、今後気をつけること」
「はぁい」
絶対聞いてないよ……。
純一の悩みは、誰にも届くことなく夕日と共に沈んでいった。本当は「うふふあはは」と情けなく笑いながら思いっきり泣きたかったというのは、本人だけが知る話である。
純一は、未来の自分を想像した。そして、泣きたくなった。
――耐えられるのだろうか。この地獄に。
「どうしたの? 目が赤いけど」
「何でもない何でもない。あはははは……」
沈む太陽の倍速で、純一の気分は沈んでいった。
瑞樹は感情をオブラートに包むことをあまり知らない。
何故ならば。
瑞樹はあくまで“魔物”を退治するためにこの町に来ている。本当は日本中を飛び回っているいわば放浪者。あてがないではないが、この表現が最も近い。それが何故この場所に定住しようとしているのかと言えば、この町に急増する魔物である。何故かここ数年、この町の魔物出現率が急増している。『魔物退治』を仕事としているのに、その退治するべきものが多く現れる場所を放っておくわけにはいかない。
最近増えたもう1つの理由としては、純一の存在があるからである。
魔法契約は一般に、契約者同士が近くにいて効力が発する。つまり、瑞樹は純一の近くにいなければならないのだ。
もちろん、瑞樹の中で『純一の存在』といえば単なる契約者だけではないのだが、それは言うまでもない。確かに、かなり一方的ではあるが。
それが一体どう『感情をオブラートに包むことをあまり知らない』ということに結びつくのかと言うと、つまるところ、あまり人と関わったことがないのだ。
人間誰しも、他人との交流の中で様々な事を学ぶ。感情の表現方法も、例外ではない。学校でも飛び級の連続で3年しか学校に通っていない彼女は、学校内で学ぶそれらのことに関してはあまり知らない。授業では教わらないこと。それが彼女には欠落している。
――それでも一人前に恋なぞするんかい。と、監視員である男性は頭を抱えた。
「瑞樹の精神的成長はあまりにおかし過ぎやしませんか?」
「まあ、3年しか学校行ってないらしいですし……」
「3年って……」
「元々最初の8年間は通ってなかったし、あんまり優秀だから校長が」
「あの校長なら、まあ……やりかねないですけど」
「まあ、最近の女の子は強いですから」
お気楽に言った別の監視員に、「強いとか何とか関係あるんですか……」と言いつつ、瑞樹の監視員は頭を抱え、溜息をついた。
全く。リヴェニアスの校長ももっと考えて行動してくれないと困るんだけどなぁ。
特定魔術師監視会理事、フォン・レクレストは、自ら運営する会の人員・予算不足と、瑞樹の行動に心底悩んでいた。
“あいつ”の性格が移ったのか……。と、妻であるメルリス・ハイスの事を頭に浮かべると、余計に頭が痛くなった。瑞樹の接近監視に行かせたのはやっぱり間違いだっただろうかと思うと、信用の問題までのしかかってきた。
――勘弁してくれぇ……。
フォンはコンソール手前に頭を置いて、青白く光るディスプレイを眺めた。
日本で言うなら民間非営利団体、略称NPOにあたるこの組織も、政府から援助を受けているわけではなく、予算のやりくりに苦労していた。止めにこの組織の仕事はメリハリというのがあまりないため人員が少ない。人件費がかからないのは良いのだが、まさか理事である自分までかり出さないと仕事が追いつかないとは、予想だにしていなかった。
次々とのしかかってくる問題と、それについて考えていたら思い当たってしまった将来のしかかってくるかもしれない問題に、彼は大きな溜息をついた。
もうその溜息が何度目かなどと数えているものは誰もいない。ただ思うは、尋常ではない数だということだけであった。
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